読み返してたら泣けてしまったのでコピペ第二弾


 ここは、かつて世田谷と呼ばれていた場所。
 徳川の治世から少しずつ人々が集い、生まれ育ち、そして天命を全うしていった、これといって目立つところもないふつうの町並みがそこにはあった。
 昭和帝の時代、世田谷はその近所とともに近代史上希に見る戦禍に巻き込まれ、営々と築かれた土地は焦土となった。
 争いは終わり、不安とともに平和が訪れ、人々が失われた家々を取り戻すべく木と紙で作った集合住宅は、徳川の世に逆戻りしたような印象を人々に与えた。
 東京市と呼ばれる地域を延々と、どこまでも覆うのは粗末な長屋たち。
 国名が大日本帝国からアメリカ合衆国日本準州に変わり、千代田から府中に中心が移ったが、それでも人々は人生を謳歌しようと働き、食べ、飲み、騒ぎ、恋をしては子が生まれ、そして土に帰っていく。
 それはこれといって目立つところもない、地球にありふれた場所だった。


 昭和三三年七月八日。
 ここは地球上でもごく希な場所の一つとなった。




奇跡は聖夜の明けに
-Feat. A.W.x-




H



 十数年の米国併合時代からすっかり馴染みの風習となったクリスマス。子を持つ親であればその数週間前から子供へのプレゼントを考えて頭を悩まし、子供たちは目が覚めると枕元にオモチャを見つけ、髭面の優しい好爺が来たのだとはしゃぐものだった。
 青梅で小さな出版社を営む石田太輔とその家族は例外だった。
 十二月二四日、昼下がり。
 彼は旧世田谷のど真ん中にいた。


 ミニバンのドアを無造作に閉める。
 バン、その音はこだますこともなく、吸い込まれるように、解け散るように空中へ消えていく。
「……」
 相変わらず言葉にならない光景が、太輔の周囲を果てしなくおおう。
 ここに初めて来たのは半年前。陸軍の青梅駐屯地に勤務する同級生に、東京水爆撃の跡地を写真撮影する業者を探していると依頼された数日後のことだった。
 ただただ広がる、何もない更地。
 二十メガトン級の水爆が府中の東側上空で炸裂、熱線と衝撃波は東京市の粗末なバラックを焼き払い、なぎ倒した。同級生はそう説明した。
 渋谷のあたりまではもう何も残っていないよ。その言葉が未だに頭から離れない。
 こげ茶色の大地を散り散りに覆う雑草。
 靴を這い上がる蟻。
 ここまで静かな初夏の光景があっていいものかと衝撃を覚えた。
 それは真冬を迎えてなおいっそう強い思いとなって心を支配する。
 空の青と大地の茶、残雪と雲の白の三色。
 たったそれだけの景色。
 数千、数万の人生が途切れた、悲しい景色のただ中で、彼は愛用のカメラを構え、遠くそびえる富士を狙ってシャッターを切る。


「こんな時にまで行かなくてもいいでしょ?」
 妻のヒステリックな声が鼓膜の奥に残っている。
 太輔はその問いに「仕事だから」と答えたのを覚えている。
 東京の全てを記録する。この地を襲った悲劇を伝え残すことが自分に課せられた天命、半年で彼はそう信じるようになっていた。
 単に軍からの依頼で荒野の東京に赴き撮影を行い、水爆撃の記録編纂に参加するという社の仕事だけではなく、それを超えた何かが自分には与えられたのだ。
 目の前にこれだけの現実が突きつけられているのに、ただしがない零細出版社の社長のまま終わっていいものか。
 家族を顧る時間はないよ。


 カシャ、カメラの作動音と後ろ手に閉めた自宅のドアの音が頭の中で重なる。
「……馬鹿だな」俺は馬鹿だ。ここに水爆落とした連中と変わらない。
 苦笑する彼の手は、フィルムを巻き上げ、再び景色にレンズを向け、満足すると少し離れた場所へとバンを走らせる。
 乾いた音が無音の大地に虚しく響いていく。
 夕暮れまでに使ったフィルムは三本を数えた。




D



 本能と記憶が導く先には、あの優しいぬくもりが待っている。彼はそう信じ、四肢をただひたすらに動かし続けた。
 もう一週間ほど何も食べず、日中ところどころで雪解け水を飲むだけでここまでやってきた。
 二、三日ほどしたところで、記憶は役に立たなくなっていた。周りの景色があまりにも違っていた……というよりも、何も無くなっていた。
 光も、匂いもない。鼻をくすぐるのは土埃だけ。
 夜は寒く、風を体にあびながらうずくまり、丸まってしのいだ。
 淋しくて、何度も鳴いた。
 帰りたくなった。
 でも……目の奥にある本能は、その場所はもうすぐそこだと彼に強く語りかけていた。


 世田谷の荒野のただ中を一頭の白い犬がとぼとぼと歩いているのは、脳髄にしみ込む野性が彼を導いた結果であった。
 目的地までは、もう少しだった。




H



 夜更け前にカメラをしまい、保温弁当に入れてきたカレーをかき込んだ太輔は、バンの後席で寝袋にうずくまりながら、自分の呼吸で曇った窓の外で輝く月を見つめていた。
「クリスマスか」
 そんなもの自分の子供の頃には無かったよなあ。そんなことを考える。


 小学校に上がった上の娘と、来年幼稚園に入る予定の下の娘。
 二人ともサンタクロースからのプレゼントを楽しみにしていたのは知っていた。
 だから妻にそこそこの資金を提供して全てを任せた。それでいいんじゃないかと思っていた。


 妻の悲しみに満ちた怒りの目。
 娘たちの不安げな表情。下のほうはべそをかいていたようにも思える。
 俺が甘かったのか。いや甘い甘くないの問題じゃないだろうと自分を責めたてる。
 だったら今すぐにでも、家に戻れ。
 妻に謝れ。
 娘たちを抱きしめろ。


 そう思うが、しかし体は動かない。
「もう」駄目かもしれないな。吐き出す白い息がそう言っていた。
 眠気に目蓋が下りていく。




D



 ここがまさにその場所のはずだった。
 彼の脳はそう告げていた。


 何もなかった。
 誰もいなかった。


 両の耳が茶色く、背中もぽつぽつと薄い茶色の斑点がある白いその犬は、ばさりとその場にうずくまった。
 もう丸まる元気もない。
 優しく頭を撫でてくれた、パパさんの大きな手。
 とっても美味しかったママさんのご飯。
 きゃあきゃあ叫びながら遊んでくれたお姉ちゃんと弟のトシくん。
 どこに行ってしまったのか。
 家はどうなってしまったのか。



 ある日、僕はママさんのママさんの家に連れて行かれて、そして置いていかれた。
 とっても淋しくて、あの頃も毎日鳴いていた。
 太陽が何回か出て沈んだ後、とっても大きな音がして犬や鳥が鳴きさけんだあとで、ママさんのママさんが僕を抱きしめて、ずうっと泣いていたのを覚えてる。
 帰りたくなった。家にとっても帰りたくなって、首につながっていた鎖をガチャガチャ何度も引っ張った。
 ママさんのママさんは僕を何度も撫でて抱きしめて、それから鎖を外してくれた。
 僕は家を目指して駆け出した。


 太陽が何回出たか、もう覚えてない。ずうっと歩いてる。
 人間がいる場所では、みんな何かご飯をくれたから元気に歩けた。
 でもちょっと前から人間がいなくなった。
 誰もいない場所に入っちゃったのかもしれない。
 怖くて淋しくて、でも家に帰りたいから止まらなかった。
 ここが家のはずなのに。
 みんな、どこに行っちゃったの?



 強い眠気が彼を襲う。
 このまま、ずーっと寝ていたい。そんな気持ちになった彼は、その場に頭を下ろし、まぶたを閉じる。
 空腹がだんだん気にならなくなって、体を流れるドクドクもだんだん聞こえなくなってきたような気がする。
 淋しいよう。



 りんりんりん、という軽やかな鈴の音が茶色い耳に聞こえてくる。
 りんりんりん。りんりんりん。
 永遠に閉じかけたまぶたを今一度、彼は開けた。
「はぁーあ」
 いきなり大声のため息が聞こえ、びくりと身を震わせる。
「お」
 白いふわふわの縁取りがついた赤いもこもこの服と帽子を身に着けたおじいさんが、そこに立っていた。肩から白い大きな袋を下げている。「すまんのう。起こしてしまったか」
 んー、とおじいさんはしゃがみ込み、おもむろに手のひらを出して「お手っ」
 反射的に彼の前足がパッと出され、おじいさんの手のひらに乗る。
「ふぉふぉふぉ」白い髭を揺らしながらおじいさんが笑った。「賢いのう」
 ほれどっこらしょっと。おじいさんは袋を下ろしながら彼のそばに座り込んだ。
 彼は袋の中から漂う楽しげな匂いについ鼻を鳴らしてしまう。
「気になるか」
 おじいさんは袋に手を突っ込んで、中から犬のぬいぐるみを取り出した。「お前さんの仲間じゃぞ」
 わうっ、と彼は吠え、黒いボタンの目を見つめる。しかし返事はない。
「……はぁー」
 再びため息をつきながら、おじいさんは彼の頭をやさしく撫でる。
「去年は子供たちがたくさんいる町じゃったのに……。一年でなーんにも無くなってしもうたわいって聞けい」
 おじいさんの手をするりとかわした彼は、袋に頭を突っ込んで匂いをかぎまくる。
「しかし、お前なんでこんなところにおるんじゃ」
 ぽん、と頭を出した彼は、桃色のうさぎのぬいぐるみをくわえてたたっと駆け出した。
「ああ待て待て」持って行くな、よっこらせとおじいさんは立ち上がり、彼の後を追ってえっちら歩き出す。
 二十メートルほど向こうで立ち止まった彼は、足元にぬいぐるみを置くと、二、三度、わんわんと短く吠えた。


 袋の中でもわもわのものをくわえた瞬間、彼には聞こえた。
 わーい、というかすかな声が。
 すぱっともわもわを袋から引きずり出すと、声のする方へ一目散に駆け出した。


 おじいさんは目を疑った。
 ぬいぐるみのすぐそばの地面がぼわっと青白く光りだし、そのまますすーっと一メートルくらいの高さのぼやけた光の柱が現れたかと思うと、もう次の瞬間にはその光は小さな女の子の姿をかたどっていた。
 満面の笑顔を浮かべた少女は足元のぬいぐるみを持ち上げ、大きなうさぎの顔に自分の顔をぎゅっとうずめる。
 ぱっと顔を離すと笑顔はもっと大きくうれしそうで、自分を見上げる犬の頭を優しく何度も撫でていた。
「お前さん」やっと口の開いたおじいさんは、一歩彼女に歩み寄った。
 少女はおじいさんの姿を認めると、短く口を動かした。
 かすかに聞こえた女の子の声は「ありがとう」と言っていた。
 すっと光の少女は消え、ぬいぐるみは足元にぱさりと落ちた。やがて少し離れたところから新たに二つの光の柱が現れて……大人の姿になり、二人は自分らの娘に続いてすっと消えていった。


 奇跡だ。おじいさんはそう思い、そしてすぐに苦笑した。自分だって人のことは言えないじゃないか。
 奇跡を起こした犬はおじいさんの足元にやってきて、わうわうーうと不思議な声を立てている。
「お前には見えるんじゃな」首元を撫で、親指で顔の横を撫でてやりながら「そうなんじゃな」
 わをーうー。何か喋っているつもりなのかもしれない。
「そうか」わかってやれんが、この何もない誰もいない大地でも、儂にできることがある。そう言いたいんじゃな。
 おじいさんは袋を持ち、立ち上がる。ここ数年来というほどの力がみなぎっていた。
「手伝ってくれるか?」
 わおう。犬は元気に返事をした。




H



 眠る太輔は、真夜中の何もない荒野にいるにもかかわらず、犬の吠える声が聞こえたような気がして目が覚めた。
 しばらく耳を澄ますが、やはり何も聞こえない。
 気のせいだ。
 彼は再び目を閉じる。




D



 白い犬はおもちゃを一つくわえるたびに新しい声を聞き、おもちゃを運ぶ。
 嬉しそうな子供たちの光が現れては旅立ち、親たち、家族たちが旅立っていく。
 おじいさんは優しげにその様子を見守り、また新たな場所へおもちゃを運ぶ。
 ぱんぱんの袋からおもちゃが一つ出てくるたびに、また一つ奇跡が積み重ねられていく。
 さっきまでぐったりしていたはずの犬も、元気におもちゃを運んで西へ東へ駆けていく。


 袋の中のおもちゃも、ついに二つきりとなった。
「頑張ったのう」もう何度撫でたかわからない彼の頭を、おじいさんは優しく撫でる。「さて……最後の二つじゃ」
 おじいさんは初めて自らの手でおもちゃを取り出した。
 優しいその手が抱えているのは、着せ替え人形とアニメのロボット。
「ほれ、頼むぞ」
 彼はおじいさんの手から人形をくわえた。
「あーっ」
 懐かしい声が彼の鼓膜を打つ。
 衝撃を受けた彼は、声のする背後をぱっと振り向いた。
「ちゃっぴい!」
 お姉ちゃんだった。
「ちゃっぴ!」
 その横にはトシくんの姿もある。
 思わず口から人形をこぼした彼は、まっしぐらに彼の家族のもとへと駆けていく。
「ちゃっぴいだー」
「わー」
 二人に撫でられながら、彼は体の奥からにじみ出るものを押さえきれなくなって、何度も吠えた。
「チャッピー」
 ふと顔を上げると、そこにはパパさんのごっつい笑顔が浮かんでいる。
「淋しかったよね……ごめんね」
 横にはママさんの笑顔も。
 彼は一年半ぶりに家族のもとへと帰ってきた。
 優しさに包まれ、尻尾はちぎれんばかりに振られている。
「ふぉふぉふぉ」
 おじいさんは優しく人形を拾うと、お姉ちゃんへと微笑みかけて「プレゼントだよ」
 彼女は金髪の小さな人形を受け取ると大きな笑顔で「ありがとう!」
「僕は、僕は」というトシくんは、カラフルなダイカストのロボットを渡してもらう。
「ありがとうございます」
 ママさんがおじいさんに頭を下げる。「私もこのくらいの頃にお会いしたかったですわ」
「そりゃ無理と言うものじゃ」ふぉふぉふぉ。とおじいさんは髭を震わす。
「今夜は特別なんでな。こいつの」パパさんの脚にじゃれつく犬の頭を撫でて「チャッピーか。彼が頑張ってくれたから、儂もおもちゃを渡すことができた」
「そうか」パパさんは彼を抱え上げて「偉いぞ、チャッピー」
 わうっと嬉しそうに吠える彼をにこやかに見つめていたママさんは、ふとおじいさんを見て「あの、もしよければあの子にも、何か……」
「そうじゃな」
 おじいさんは空になった袋を地面にはらりと置くと、さっと勢いよくつまみあげた。
 真っ赤な屋根と白い壁の、真新しい小さな小屋が現れた。
「こんなものしかないがのう」
「素敵ですわ」ママさんは嬉しそうに「ありがとうございます。本当に」
「ふぉっふぉっふぉっ」
 暖かな家族にかこまれ、その犬は嬉しそうに尻尾を振ってはじゃれついている。


「今日は疲れたろう」
 新しい寝床でうずくまる僕を、パパさんが優しく撫でてくれる。「ゆっくりお休み、チャッピー」
「頑張ったわね」ママさんの声も聞こえる。
「お休み」
 パパさんの手が離れた。もっとみんなの匂いを嗅ぎたいけど、もう眠くて動けない。お腹は空いたまま。
「またね、ちゃっぴい」
「おやちみ」
 お姉ちゃんとトシくんの声が、ちょっと遠くから聞こえた気がする。
「しっかりお休み」
「もう淋しくないからね」
 パパさんとママさんの声がだんだん小さくなって、聞こえなくなった。
 眠ろう。
「ふぉふぉふぉふぉふぉ」
 びくりとして目を開けると、おじいさんが寝床をのぞいている。
「よーくお休み」しわしわのおじいさんの手が、優しく頭を撫でてくれた。
 嬉しかった。
 薄目の向こうで、白いキラキラしたものが舞い飛んでおじいさんをかき消した。


 みんなに会えて、嬉しかった。




H-D



 寒くて目が開いた。
 ごそごそと寝袋を出ると、肌に針を突き立てられたような寒さ。慌ててダウンジャケットを羽織る。
 ドアを開けて外に出ると、靴がぎゅっと音を立てた。
 いつのまに降ったのか、夜明け前の荒野は、一面雪に覆われていた。
「こりゃまた」
 助手席からカメラを下ろしながら、太輔はつぶやいた。「ますます寒々しい」
 雪雲はすでに晴れていた。空は薄明るくなり、東のほうでは今まさに陽が姿を現そうとしている。
 バンから少し離れ、東にカメラをかまえて一枚。
 グラデーションのかかった暗い青空と、真っ白な雪景色のツートン。全く何も――
「……ん」
 何もないと思っていた大地。どこまでも広がる雪景色。
 その大地が、ずっと向こう……日の出のすぐ下あたりで小さくぴょっこり飛び出ているように見えた。
「何だろうな」
 岩か何か、昼日中で気づかなかった何かに雪が積もって目立っているのかと思い、二、三歩進んだところで何かを踏みつけた。
 やわらかい感触のした右足を退けると、白い雪の中に桃色の足跡が。
「え」
 右手を雪に突っ込み、手に当たったものを持ち上げる。


 桃色のうさぎのぬいぐるみが、彼の手の中にあった。


「そんな」
 くりくりとしたプラスチックの目が太輔を見つめる。
「そんなばかな」
 昨日まで荒涼と、何も存在しなかった荒れ果てた大地。
 異物としか言いようのないものを目の当たりに、彼の脳はしびれたようになる。
 雪面をよく見ると、十数メートル置きにところどころふっくらと盛り上がった部分があることに気づいた彼は、ゆっくりとふくらみに足を向け、手を突っ込んでは何かを持ち上げる。
 それはネットに入ったサッカーボールであり、二匹の猫のぬいぐるみであり、特撮ヒーローの変身道具であり、戦車や戦艦、おままごとのセットなど様々なおもちゃであった。
 クリスマス、という言葉がしびれた頭に響き渡る。
「ばかな」
 両手にいっぱいのおもちゃを抱えた彼は、あたり一面、見渡す限りに小さなふくらみがあることに気がついた。
 雪がなければ、今、ここは、果てしなくおもちゃが広がる様子が見えたに違いない。
 そして目の前には、ひときわ大きなふくらみ。最初に気づいた、雪が飛び出たようになっている何か。
 小さな小屋だった。雪が落ちた屋根の端っこは真っ赤に塗られ、壁は白く雪景色に溶け込んでいる。
 反対側に回り込んではじめて犬小屋だとわかった。日の出の方向に出入り口が開いていた。
 まさかと思い、中を覗き込む。
 一頭の犬が寝息を立てていた。


 じわりじわりと、まぶたの向こう側が明るくなっていくのを彼は感じていた。
 目を開けようかどうしようか迷っているうちに、向こうがふっと暗くなる。
 そこで彼は目を開けた。
 一人の人間が彼を見つめていた。


 犬は目を開け、彼を見る。
「お前」
 どうしてこんなところに犬がいるんだ。いや、こんな白と赤の小屋が残っていれば絶対気がつくはずだ。
 ここ半年、毎週のように世田谷を訪れていた俺が気づかないはずがない。太輔は半ばパニックに陥りながら犬を見つめ続ける。


 小さく首を振るその人は、なんだかいい匂いがした。
 彼はゆっくりと立ち上がり、小屋の外に出る。寒さが毛皮を通して感じられたが、ほとんど気にならない。


 犬は小屋を出ると、太輔が抱えるおもちゃに気がついたようだった。
 匂いを嗅ぐと、わーうわうっと小さくうなるように吠える。
 犬を見て、小屋を見て、腕のおもちゃを見て、また犬を見た太輔は、ただ一言つぶやいた。
「まるで奇跡だ」


 太陽がその頂を表し、大地に最初の光が射される。
 ふっと腕が軽くなるのを感じた太輔は、うっすらと色合いが薄くなり、輝きを放って消えていくおもちゃに目を剥いた。
「消える」
 足元に落としたサッカーボールが、まだ手の中にあったうさぎのぬいぐるみが、青白い光となって消える。
 大地に積もる雪のあちこちから、青白い光が昇っては消え、昇っては消えていく。
 見渡す限り、無数の光が空へと消え昇っていった。
「消える」
 目の前で最後に残った犬小屋が薄くなり、ぱっと輝いて消えた。
 聖夜が明け、雪の大地には太輔と犬だけが残された。
「お前は本物か」
 しゃがみ込んだ太輔は、犬の頭をぐりぐりと撫でた。犬がしきりにカメラの匂いを嗅ぐのを見て「ああっ!」
 立ち上がった彼はあたりを見渡し、昇る太陽に目をしかめながら笑った。
「撮りゃよかったのに」すっかり忘れてた。


 奇跡は聖夜とともに消え行く。
 いや。


 太輔は再びしゃがみ込むと、へはへはと白い息を吐き出す犬と見つめ合った。
「どこから来たんだよ。まさかここにずーっといたわけじゃないだろうに……」
 ぐりぐりと犬の頭を撫でる。二人の娘の顔が脳裏に浮かび、消えた。


 山のようなおもちゃ。その全てが消えたあとで残ったのはこいつ一匹だけ。
 あれは幻だったのか……ぬいぐるみの少し湿ったふわふわした手触りも、ボールの弾力も、何もかも幻だったのだろうか。
 一つだけ言えるのは、この犬はどうやら本物で、ここにいるということだけだ。


 何もかも馬鹿馬鹿しくなった。
 自分は一体何をしていたのだろう。
 本当に大切なのは何だ。
 生けるものか、死せるものか。
 前か、後ろか。
 答えは目の前にある。いや、いる。


 太輔はぐいっと自分の顔を犬の顔に近づけると、
「うちに来るか?」
 見つめ返す犬は尻尾を振り、一言わうっと元気よく吠える。



 石田家の娘たちは新たな家族を笑顔と歓声でもって迎え、彼女らの母はばつが悪そうに謝る夫を苦笑しながら迎えた。
 ケンと名づけられたその犬は大切に可愛がられ、娘たちの成長を見守り、日本が最初の人工衛星を打ち上げた年まで生き、上の娘夫婦に看取られながら穏やかに旅立っていった。






東京府
 第二次大戦の米軍による本土上陸作戦とそれに伴う戦略爆撃によって、旧東京市とその近隣市街地はほぼ完全に焼き払われた。戦後米国に併合された後、府庁舎は府中市に置かれ、旧東京市周辺は低所得者バラックが延々と広がる、空き地と住宅地が混ざり合った場所へと変貌し、わずかに皇居周辺にビルディング群が建つのみとなっていた。昭和三三年、ソ連軍の北海道上陸によって火蓋が切られた北海道戦争の折、東京、京都、長野が実験的色合いの濃い水爆攻撃の被害を被る。府中を爆心とした水爆撃によって東京府庁舎は青梅市郊外へと再移転され、八王子・立川以東、文京・千代田以西は滞留禁止区域とされ無人化した。


HとD
 HumanとDogの頭文字。ちなみに水素(ハイドロジェン。陽子1つの原子核を電子1つが周回する)の元素記号はH、水素爆弾に用いられる重水素(デュートリウム。水素の原子核中性子1つが加わったもの)はDと表記される。




書いたのは2002年4月30日らしいです。もうじき3年経ちますな。
うーむ、写真をPalmに置き換えると…(+_+;)(笑)。