「Lesson」

 自分の素性。船の仕様。旅の目的。してもいいこと。してはいけないこと。旅立ったときの世相。歴史。文学。音楽。絵画。光学。天文学。地学。物理学。化学。数学。電磁気学量子力学。転換炉。対消滅推進。生体フリーズシステム。医学。料理。食事。空腹。リンゴの皮の剥き方。
 リンゴ。赤くてみずみずしい果実の食感を思い出したところで光の奔流がフェードアウトしていく。
 真っ暗で静かなどこか。
 そっとヘッドギアを外すと、ほわっと柔らかな光が恥ずかし気に裸体を照らしはじめる。
 くしゃみが出た。


 服は椅子の上に畳んであった。自分で畳んだということは「授業」の時に記憶が刷り込まれているのでわかっている。
 畳んだ時の記憶はどうやっても思い出せないのに、それを畳んだという事実は知っている。
 もう三度目。慣れっこだ。と言いたいところだがやはり慣れることができない。
 見慣れた映画を観ているような気怠さを憶えながら、ぴったりと吸い付くような生地でできた船内活動着をぎこちなく身に着ける。


 俺は本当に俺なのか。


 それは「五日目」になってますます強まる不安を要約するものだったが、信じる以外に術は無い。
 センターコンソールの隅っこに映っているカレンダーを見た。
 起床五日目という項目は記憶と一致する。
 出航日からの経過時間と前回の生体フリーズ開始日からの経過時間、そして今回の自動探査開始日からの経過時間。それぞれを見ても全く現実味が湧いてこない。


 夢なのかもしれない。


 志願者試験にエントリーした時から時折見続けてきた、夢。その一つ、その続きを見ているだけなのではないだろうか。俺は。
 夢と覚醒を見極める古典的な方法がふと脳裏に浮かび、頬に爪を立ててみた。
 当たり前だったが「あいたたった」げほっげほっげほ。
 久しぶりの発声に咽せる。
 涙が流れた。



 糧食棚から取り出したコーヒーを飲みながら、コンソールに映し出された状況報告を流し読む。
 アキレウス七号は正常に機能している、とシステムは主張していた。ひとまず信じておくとする。
 睡眠時航行中の緊急加速停止は七回。うち重大な事象が一回あったらしい。内容は小規模天体との衝突。これにより対消滅推進機の一つが脱落し、転換炉も緊急停止したとある。
 タンブラーを持つ手が震えてきたのがわかる。そのまま何も気付かずに死んでいてもおかしくはなかった。いや、死んでいるようなものだから「生き返る」ことが無かったと言うべきかもしれないが。
 転換炉は十三年も停止していたらしい。停止している間は予備に搭載されている原子炉——放射性元素の核が崩壊するエネルギーを利用するあれだ——によるわずかなエネルギーでシステムは維持されていたようだ。
 少しずつ蓄積されたエネルギーによってコライダーを起動し、点火を試みること四回目にしてようやく転換炉は再起動を果たした。そして前回立ち寄った星系で準備されていた予備の推進機をセットアップし、船体各部を修繕して再び加速を始めるまでに更に二年が経過していた。
 恒星間を航行中にシールドを突破するほどの質量を持った天体と衝突するなど恐ろしいほど低い確率のはずだった。可視光はもとよりガンマ線からデカメートル波まで、進行方向上の空間は各種センシングシステムによって常に観測されているはずなのに。
 渋いというよりも苦いコーヒーを口に含む。
 結局、衝突天体の正体はわからなかったらしい。たまたまシールドのパルス間隔をすり抜け、推進機とともに後方へと離脱していってしまったのだろう。センサーの記録を見ても、これといって特徴的な残留元素も認められなかった。
 その後はこれといって重大な局面を迎えることも無く、シールド由来のガンマ線を反射したと思われる反応を二度ほど捉えて停止した記録だけが認められた。
 赤色矮星が支配するこの星系に進入したのは今から三年と四十二日前。
 ハビタブルゾーンに惑星は無く、灼熱のホットジュピターと凍てつくスーパーアースという地獄の展覧会場に生命の絵画は発見できなかった。
 出航からは、すでに一世紀以上が過ぎ去っている。


「……」


 目を覚ましてからは、五十七分と十八秒。
 目覚めと同時に受けさせられる九分半の「授業」の間に、これまでの人生を一気に振り返る。
 疲れ果てた視神経が、本来その機能を発揮するために備えられた器官を通して脳に送り込む情報は、しかし、疲れと孤独感をより一層増すための重苦しく苦い、煮詰められたコーヒーのように骨身に染み渡る。



 生体フリーズのプロセス開始刻限まで、あと一日と二十三時間。
 メモリバンクのライブラリリストを表示した俺は、まだ観ていない映画の中から候補を選定する作業を始めた。