ニコイチ(後)

 きぃんと耳鳴りのような感覚が全身を駆け、ナオヤも運転席から飛び出した。
 車の列から出て、車道に向かいもつれるように走る彼女に追いつき、どうしていいかわからないままその後ろから抱きしめる。





「死のうとしてたのおっ」





 腕の中で、空気が抜けていくバルーン人形のように、ユリコの力が徐々に抜けていく。
 死のうとしてたの。
 脳がしびれたように思考の波が凍り固まる。


「ガス欠になったら練炭炊くつもりだったのに」


 嗚咽の端々に彼女の叫びが混ざり込む。


「チェーン脱着場三百メートルって見えて」


 脱着場。
 必死になってBMWに向かって手を振った、その時の光景が蘇った。


「そこで死ぬって思ってたのに」


 アスファルトにへたり込んだ彼女を、倒れないように、ナオヤは抱きかかえる。
 体の力は抜けているのに、何度も何度も、ユリコは小さな首を強く左右に振る。





「なんであんたがいるのよおっ」





 そうだったんだ。
 だからあの時、必死でエンジンをかけ直そうとしていたんだ。



 俺がいたから。
 ここでは死ねないと思ったから。



 だから、残ると言ったんだ。
 そうすれば、独りで死ぬことができるから。



 だから、俺に帰ってくれと言ったんだ。



 嗚咽を、ただ聞いていることしかできなかった。
 練炭。聞き慣れたようでいて、あまり見慣れないもの。
 死地を見定めるためのドライブで、俺は出会ったんだ。


 涙があふれてきた。
 頬が、熱い。
 彼女の人生に一体何があったのかはわからない。わかる時が来るのかどうかも定かではない。何と声をかけてあげればいいのか、それさえも浮かんでは来ない。
 今、ただただ胸の内を支配している思いは、とてつもなく利己的な、自己中心な気持ちのように思える。
 それを伝えることがプラスとは思えないけれど、あふれる思いを封じ込めることもできない。


「死なないで」


 涙声がほとばしる。



「死なれたら寂しい」



 ユリコの嗚咽がさらに大きくなった。
 身をひねるのがわかる。
 彼女の右手がナオヤの左肩にかかり、シャツを握りしめる。
 それが泣くことによるものなのか、頷いているからなのか、胸に伝わる彼女の頭の動きが意味するところはまだよくわからない。
 真っ暗な駐車場の、まだ新しく黒いアスファルトの上。
 白い街灯の灯りに照らされながら、二人はただひたすら、涙を流し続けた。



 ユリコを抱きかかえながら鍵を差し込み、重いドアを開く。
 ぼわっとオレンジ色に光るスイッチに手を伸ばして灯りをともす。
 室内の様子に違和感を感じ、その正体がやたらと幅のあるベッドであることに気付くまで時間はかからなかった。
 なんでベッド一つしかないのここ。


 駐車場にいたのは数分なのか数十分なのか。
 入ろう、ナオヤがそう言うとユリコは頷いた。
 二人とも潤んではいたが、涙は止まっていた。
 それでも心配なままのナオヤは急いで車に戻るとキーを抜き、ユリコのバッグを持つとドアを閉める。
 立ち上がったユリコとともに、ホテルのフロントへ。
 名前と住所はナオヤが書いた。
「お部屋はいかがいたしますか?」
 フロントのお姉さんが尋ねる。
「あ」何も意識せず、ナオヤは答えていた。
「ダブルで」


 ユリコをそっとベッドに座らせる。
 ぎしっ、とベッドがたわむ。
 疲れを感じ、その隣にナオヤも腰を下ろした。
「なんでダブルルームなの?」
 うつむいたままでユリコが言った。
「……ベッドが二つってダブルじゃなかったでしたっけ」
「ツインルーム」
 あれ?
 そういえばそんな呼び名の部屋もあったなあと「ツイン」反芻するように「ツイン」
 繰り返す。


 ふ。


 鼻息と吐息が混ざったような音がして隣を見ると、真っ赤に腫れ上がったようなぼろぼろの瞳が二つ、ナオヤを見つめていた。
 ユリコの口もとから徐々に力が抜け、両端が横に、上に引っ張られて。
「ふっ、ふふ、あははは」
「……はは」
 つられるように、ナオヤも笑い出した。
「あはははは」
 楽しそうに、可笑しそうに、ユリコは笑う。
「知らなかったの?」
「ホテルなんて」周りを見渡しながら「家族で旅行の時は旅館とかペンションだったし、あとはシングルしか知らない」
「ダブルしか出てこなかったの?」
「うん」
「おかしいー」


 腹筋が痛くなるまで、一緒に笑い続けた。


「教えて」
 笑いが収まると、ナオヤは訊いた。
「何があったの」
 ユリコは真っすぐに前を向く。
 瞼を何度もしばたたき、長く閉じて。
 深く息を吸い、吐く。
「婚約してたの」
 頭が垂れる。
 ナオヤは、その姿を見守る。
「会社辞めてから、それを破棄されたの」
 瞬きが早く繰り返されるようになる。
 思い出というには余りに生々しく記憶に残っている出来事を語ることの辛さ、それに必要とされるエネルギー。
 俺には、まだ想像しきれないのかもしれない。ナオヤはそんなことを思う。
「それだけ」
 笑顔がナオヤに向けられる。


 婚約破棄。


 死を決意させ、実行に移させるだけの力が、そこにはあるんだろう。
 果てしない負の重みに押しつぶされそうな感覚に陥る。
「ごめん」
 自然と出てきた言葉だった。
「思い出させてごめん」
「……何言ってるのよ」
 ユリコの頭が肩にもたれかかってくる。


 守りたい。


 強く、はっきりとした思いがあふれてくる。


 このひとを守りたい。
 このひとの笑顔を。
 このひとの幸せを。
 命を。


「守りたい」


 気が付くと、言葉に出していた。
 返事は無い。
 肯定も、否定もされることはなかった。


 頭が肩から離れる。
「ナオヤくん」
「なに?」
「幾つ?」
「ハタチ」
 答えてからだんだんと心拍数が上がっていくのを感じた。
 ユリコを見る。
 目が合うと、笑みを浮かべられる。
「じゃ呑めるね」
「え」
「五つ上のお姉さんが」
 そう言うとユリコは立ち上がる。
「晩酌に付き合ってあげよう」
「は」なんだなんだ。
 カウンターのように壁面に取り付けられたテーブルの下にある冷蔵庫、ユリコはそこから小振りなワインのボトルを取り出すと、トレイに並べられたグラスを見て「ワイングラス無いねえ……まあいいか」
 手際よく栓を開け、並べたグラスに赤いワインを注ぐ。
 それを両手に持ってベッドに戻ってくると「はい」
 グラスを渡された。
「……えーと」
「かんぱーい」
 キン。一方的にグラスが当てられ、ユリコはグラスの半分ほどを飲み下す。
「味はこんなもんね」
 酒豪?
「ほらほら呑んで呑んで」その勢いに気圧されるようにしてナオヤもグラスに口をつける。



 最後の一杯をグラスに注ぎながらもユリコは笑い続けた。
「嘘でしょお?」
「ほんとほんと」二杯目を干したナオヤも笑いが止まらない。
「あん時ゃ恥ずかしかったあ」
「あははははっ」
 はーもう無いわ。三分の二ほど入ったワインをユリコは一気に流し込む。
「強いね」ナオヤが呆れる。
「何が?」
「お酒」
「ワインだけね」
「ふーん」
「あーなんかもう」
 ユリコが後ろ向きにばたりと倒れ込んで「眠くなっちゃったあ」
「何時だろ」
 携帯電話を取り出して「うわー」ナオヤが笑う。
「三時だって」
「うっそぉ」わはは。
 もうなんでも可笑しい。


 あっという間の数時間だった。
 堰を切ったように、互いの人生を語り合った。
 子供の頃の思い出、学生時代の恥ずかしいエピソード、社会人としての苦労。
 恋愛のことも、趣味のことも、今一番の楽しみも。
 お互いわからないことはもうないと言い切れるくらい、思い切り言葉を交わした。


「はー」
 ごん、ユリコが勢い良くグラスをテーブルへ。
「寝よっか」
「だね」
 身を乗り出し、テーブルに携帯電話を置く。浮かせた腰を下ろすと、いつのまにかすぐ横にユリコの顔があった。
 ワインで真っ赤になった顔の、とろんとした瞳に見つめられている。
「ん?」なに?
 と首を傾げると。
「お願い」




 すっと近づいた唇が自分のものと重ね合わさる柔らかい感触。




「守って」




 ふわっ。
 しなやかにユリコは倒れ込んだ。


 呆然と、ゆるやかに上下する胸元を見つめる。


 くー……。


「……」
 寝ちゃったよ。


 すー……。




 じゃー。


 変な寝息だなあ。
 そんな感想を抱き、眠りの底からまどろみのたゆたう水面まで意識が引き上げられる。


 じゃー。


 目を開けた。
 思いもよらない眩しさに目をしかめる。
「うわ」
 朝だった。
 はっと傍らを見る。
 ユリコがいない。
「あれっ」
 飛び起きる。
「あ」
 バスルームの戸口からタオルを持ったユリコが顔を出した。
 さっきから聞こえる「じゃー」は水道の音だった。
「おはよう」
「……びっくりしたあ」
「どうしたの?」
「いないかと思った」
「ばっか」笑われた。
 とても爽やかな笑顔だった。
 自然と、ナオヤの頬も緩む。


 なんだろう。
 なんだろうこの当たり前のような空気は。
 二人で笑い合うことが当たり前のことのように感じられる。



 チェックアウトの時間まで少ししかないということに気付くまで時間がかかった。
 慌ててホテルを出た。ほぼ身一つの状態だったから苦ではなかった。
 コンビニに立ち寄り、サンドイッチとお茶を買う。
 ホームセンターに向かう間、移動しながら遅い朝食を摂った。
「はい」
「ありがと」
 差し出されたサンドイッチを掴もうと手を伸ばす。
 伸ばすのだが「あーん」
 直に口に運ばれた。
 ありがとう、と言ったつもりが「あいあおう」
「きたなーい」と笑われる。


 すでに届いていたガソリン専用缶を購入し、昨日の道を戻っていく。
 スタンドに立ち寄ると、おじさんに驚かれた。
「街ん中で入れてくりゃよかったに」
 頭をかきながら「おじさんのとこで入れたかったからさあ」照れ笑いを浮かべながらナオヤが言う。
「そうかい」おじさんは嬉しそうに缶を渡してくれた。
「ありがとう」
「気ぃつけてなあ」
 バックハッチに缶を載せ、手を振りながら運転席に乗り込んだ。



 着いてしまった。
 昨日のままの、外されたタイヤが二本、そしてユリコの車が一台。
 戻ってきてしまった。
 エンジンを切る。


 たった今まで聞こえていたはずのユリコの楽しそうな笑い声は、もう聞こえない。


 現実が、ここで具体的な形を持って待ち受けていた。
 まだ出会って一日と経っていないという事実を、ナオヤも自覚する。
 昨日のこの時間、まだ互いの存在を知覚することは無かったのだ。
 もうずっと、何年も前から知っているような気がするけれど。
 それは、錯覚なのだ。


 ふぅ。
 鋭く息を吐くと、ユリコはベルトを外した。
 抱えていたバッグをシートに置き、車を降りる。
 ハザードを点滅させ、主人に出迎えの挨拶を送るユリコの車。
 助手席のドアが開けられるのをナオヤが見ていると、ユリコは茶色い何かの包みを取り出し、道路側ではなく林のほうのガードレールへ向かい。
「え」
 砲丸投げのように包みを林に投げ入れた。
「なになになに」
 ナオヤが車から降りる間にユリコは再び車へ戻り、今度は七輪を抱えて出てくる。


 ぐりっ。


 胸元を抉られるような衝撃。
 死を暗示するアイテムを視覚で目の当たりにするのはショッキングだった。
 何か持ってないですか。昨日、そう尋ねたような気がする。
 振り向いたその強ばった表情。
 今なら、その理由がわかる。


 やはり砲丸投げのように肩口のあたりで七輪を抱え、ガードレールに向かうユリコ。
 投げない。
「……」
 七輪を下ろし、両手で抱え込む。
 立ち尽くすナオヤに、ユリコは言った。


「秋刀魚でも焼こうか」


 は。


 何がおかしいのか、言った本人が先に笑い出した。
 余りにシュールな提案。いや、まあ、それが本来の機能であるべきなんだけど。
 ナオヤも笑った。
 七輪を抱えたまま全身を揺らすユリコ。
 彼女が顔を上げるまで泣いていることには全然気が付かなかった。


「生きるから」


 叫んだ。


「私、生きるから!」
 ナオヤの目からも涙がこぼれた。
「絶対生きるから!」
 唇を噛み締める。
「こんなに」
 震える声でユリコは言う。


「こんなに生きたいって思ってるの産まれて初めてだよ」


 死を願い泣きじゃくっていた昨夜の姿がフラッシュバック。
 人間って、変われるんだなあ。
 嬉しくなった。
「ありがとう」
 嗚咽が、大きくなっていく。
「ナオヤのこと」
 ひときわ大きくしゃくり上げて。



「絶対忘れないからぁ!」



 七輪が助手席に放り込まれた。



 え?



 運転席に駆けたユリコは、昨日のようにスカートをなびかせ、車に乗り込む。





 ナオヤの頭の中で、最後の言葉が繰り返される。
 絶対忘れないから。





 夕べの電撃的なキスの柔らかさが蘇る。





 死のうとしてた。
 泣き叫ぶユリコの細い肩の感触が蘇る。





 車の中で見せた、切なくなるほどの笑顔が蘇る。





 そして、バスルームから出てきたすっぴんの爽快な笑顔。





 ドアが閉じられた。





 忘れないって。
 うそだろ?





 ブレーキランプが点った彼女の車を、呆然と見つめる。





 お別れなの?





 俺だって忘れられねえよ。





 突然すぎるよ。





 待って。





 キュルルルルル。





 キュルルルルルルルルルル。
 キュルルルルルル。





 あ。





 運転席のドアが開いた。
 ユリコが降り立つ。
 唇を一文字に結び、目頭からは涙があふれている。
 両の拳をにぎりしめて、彼女は言った。




「ガソリン」




 堪えきれない。
 なんなんだよこの人は。
 これで放っておけっていう方が無茶苦茶だろ。
 放り出せるはずないって。


 駆け出す。
 ほとんど同時にユリコも駆ける。


 正面から抱きしめた。
 彼女の言葉が鼓膜を叩く。
「だめ」
 首を振られるたびに髪が鼻をくすぐる。
「だめ。だめっ」
「何が」
「だめだよ」
「なんで」
「こんなのだめ」
「どうして」
「どうしても」
「守ってって」
 憶えていないのか。酔った勢いだったのか。確かめたくて「守ってって言ったろ」
「言った」え。
 憶えてるんじゃん。
「でも忘れて」
「やだ」
「忘れて、お願い」
「守るよ」
「そんなこと簡単に言わない」
「簡単に言ってない」
「こんな」
 ぶんぶんと激しく首を振って「勢いで決めちゃだめなの」
「勢いかもしれない」
「じゃあ」
「でも嘘じゃない」
 思いの奔流を押しとどめることなどもうできなかった。
「あなたのこと」
「やめて」
「なんで」
「だって」
 顔を上げたユリコと視線が一致した。
 背伸びをするユリコの唇が既視感を伴って自分のそれと重なる。
 柔らかなその感触が消えると、当惑した表情の彼女の顔が離れる。
 ナオヤの胸に顔をうずめるようにしながらユリコは「もうっ」
 なにがもうだというのか自分からキスしておいてそれも二回も。


 ひとまずガソリンを入れよう。
 うん。


 注ぎ口まで備えられていたこともあって缶からの給油は呆気なく終わった。
 持って帰るというので空いた缶はユリコの車のラゲッジに積み込む。
 ユリコに見つめられる。
 なんだかよくわからないうちに互いの気持ちは伝わりあっていた。
 そしてそのことに彼女が戸惑っているということも。
「言ってよ」
「え」
「だから、言ってよ」
 笑いながらナオヤは願った。
「教えてよ、素直な気持ち」
 ユリコがうつむく。
 斜めを向いて顔を上げ、深呼吸しては口を閉じ、また息を吸って、吐いて。何度かそれを繰り返してから。
「言ったら引くよお」
「引かない」
「嘘」
「引かないってば」
「辛いんだよ?」
 逃げたくないものから逃げたいという矛盾をはらんだ彼女の瞳がナオヤに向けられる。
「学生とか社会人とか……同じ立場同士じゃないんだから、周りから色々言われるんだよ?」
「好きだから」
 言ってから、言葉にするのはこれが初めてだと気が付いて顔が熱くなった。
「何を言われても気にしない。俺が社会に出たらもう何も言わせない」
 


 ふうっ。


 ユリコは大きくため息をつき、目を閉じて。
 開く。
「守ってくれる?」
「守る」即答。
「本当に?」
「うん」
「本当に守れる?」
「少なくとも全力で努力する」
 彼女の瞳を見つめた。
 深かった。
 一瞬、本当に守れるだろうか、そんな不安が芽生えたが、すぐに消えていく。


 このひととなら。


 二人で一緒にいられるのなら。
 きっと。


「守れる男を目指すよ」
 そこまで惹かれる理由は、正直なところ自分でもわからなかった。


 ユリコが目を伏せる。
「ずっと」
 見つめ直す。
「ずっと守って」
「うん」
 即答。


 ん?


 ちょっとまてよと考える。
 ずっと。
 それって。


「全部わかったの」
 少し嬉しそうに微笑みを浮かべながらユリコが言う。
「婚約破棄も、死にたくなったことも、どうしてそうなったのか、全部わかった気がするの」
 彼女は呼吸を整えて。


「そうでもしないとナオヤと出逢えない運命だったから」


 運命。
 だからなのかな。
 こんなに急激に、このひとに惹かれていったのは。
 うん、そうだったんだよ、きっと。


「守るよ」
 ユリコの手を取り、優しく握る。
 再び、ユリコの顔が胸に預けられる。
「本当に?」
「うん」


 ふっと、ユリコが離れ、ナオヤの車の助手席を開ける。
「バッグも残ってた」恥ずかしそうに笑って。
「ケータイ見せて」
「え、うん」ポケットから携帯電話を取り出す。
「番号は?」
「待って」
 表示された番号を見ながらキーを押すユリコ。
 指の動きが止まり、三十秒ほど画面を見続けてから「そうか、圏外か」
「うん」
「電話するね」
 自分の車の運転席に乗り込みながら、ユリコは言う。
「帰ったら、絶対電話するから!」
「待ってる!」


 キュルルルル。
 グォン。


 走り出した彼女の車を、ナオヤは決意とともに見送る。
 ハザードを明滅させながら、あっというまに見えなくなった。




 静寂。




 携帯電話をしまう。
 自分は彼女の番号を知らないままであることに気が付くと、不安が酸味をともなって胸にあふれてくる。


 本当に電話してくれるのだろうか?


 リヤシートを倒し、パンクしたタイヤをラゲッジに積み込む。
 運転席に乗り込むと、ほんのりと彼女の残り香を感じた。
 少なくとも夢ではない。


 時計は十二時を回ったところだった。
 鮮烈な記憶と熱い何かをもたらしたこの一日が、未来のほんの入り口であることを望みながら、ナオヤはキーを回す。
 不安は、いつのまにか消えていた。



 自宅までの数時間の道中を危ういコンディションの車で過ごした。
 やっとの思いで家に辿り着いてから携帯電話が着信を知らせるまで三分とかからなかった。




【おわり】