ニコイチ(前)

 うららかな春の日差しを一身に浴びながら、愛車にもたれかかる。
 絶好のドライブ日和、ひとときの休憩タイム。
 カーブに設けられたチェーン脱着場。今頃本来の目的で使う人間なんかいないだろう、ちょっとくらい停めさせてもらったってバチはあたらないはずだ。
 遠く、車のやってくる音に身を起こす。
 道路際のガードレールから身を乗り出すようにして両手を挙げる。
 車の姿が見えるやいなや、めいっぱい手を振って「おーい!」
 走り去るBMWと砂埃。
 咽せながら振り向くが、止まってくれそうな気配は一切無く。
 行ってしまった。
 この日何度目かの溜め息をつき、ナオヤは力なげに車へと戻って行く。



 すぱぱん、と嫌な音が響いたのはここから数百メートル手前の地点だった。
 じわじわと振動が増してハンドルが取られるようになる。
 パンクかなあ。冷や汗の吹き出す手でハンドルをしっかりと握り、停めやすそうな路肩がすぐに現れてくれることを祈っていると脱着場が見えてきた。
 なんと幸運な。パンクする段階で運がいいのかどうかわからないがとにかくこのラッキーに感謝。
 車を停めてタイヤをチェックする。
 右の前輪と後輪に異常はなかった。
 後ろから左に回り込むと、後輪がぺったんこになっていた。
 あーあ。
 自宅通学とはいえ大学生、タイヤ代のことを考えると小遣いの状況や親の反応など泣きたくなってくるがここはひとまずスペアに交換しなくてはいけない。
 バックハッチを開け、着替えの入ったバッグを後部座席に放り込む。パズルのように収納されているツールの中からジャッキを取り出し左側へ。
 えーとどこにかけるんだっけ、と車体を注意深く観察しているうちに左の前輪が目に入ってきた。
 ぺしゃんこになっている。
 え。
 前輪、後輪、小鳥のようにきっきっと首を振る。
 両方ぺしゃんこ。
 うそ。
 ラゲッジに戻ってスペアタイヤを見る。
 当たり前だが一本しか入っていなかった。
 天を仰ぐ。
「ありえねーよ」



 呆然とすること約一分。
 そうだあっとポケットから携帯電話を取り出す。
 ああ素晴らしきかな文明の利器。アドレス帳から自宅の項目にカーソルを合わせ、オフフックを押して耳に当てる。


 ツーツーツー。


 くそっもうっこんな時に話し中かっ。誰でもいいからと今度は妹の名前にカーソルをあわせてオフフック。


 ツーツーツー。


 あいつまで話し中かよ全く、と顔をしかめたところで左上隅っこのアンテナマークに目がいった。
 読み上げるつもりはなかったけれど自然と口をついて出てきた言葉。
「圏外」



 もしもの時に備えて携帯電話の電源は切ってしまった。
 車内に戻り、時計を見た。午後三時過ぎ。立ち往生してから三時間ほど経ったらしい。
 早めのお昼をコンビニで済ませておいてよかったと心底思った。五百ミリリットルの烏龍茶もほとんど残っていたから、長時間の足止めにもなんとか耐えられそうな状況であることには感謝を憶えた。
 問題はここで通りかかった車に助けを求めようと決めた自分の決断。
 少しずつ焦りと後悔を感じ始めている。
 意外と急な上り坂のカーブ。内側ではなく外側にあるからまだ視認される時間は長いのだろうが、直線路と違って手を振る姿を見かけるにはだいぶ近くまで来ないと無理だった。制限速度も五十キロメートルだから、通過する車の速度もかなり出ている。
 まだ日が高いうちに歩いて下って助けを求めた方が良かったんじゃないだろうか?
 車で十五分から二十分くらいのところにコンビニがあった。近くにはガソリンスタンドもあったような気がする。空気さえ入っていればどんなタイヤでもいい、一本借りて下ることだってできたかもしれない。あるいはJAFを呼ぶことも。
 対向車と比較的頻繁にすれ違ったことと、歩かなければならない距離を考えてここで助けを求めることに決めたものの、時間帯のせいなのか、思っていたほど車が通らない。
 傾きはじめた春の陽射しを感じながら、ナオヤはどうしたものかとシートにもたれかかる。
 少し疲れた。
 ああいけないこのままでは寝てしまう。けれども気持ちがいいからこのまま寝てしまいたい。葛藤の中、徐々に眠りに落ちかけた意識に対し、聴覚が車のエンジン音の波形を脳に送り込む。
 慌ててドアを開けたため、ヒビだらけのアスファルトに転げ落ちる。
 這うような姿勢でガードレールに辿り着き、寄りかかりながら手を振ろうとする。
 乗用車の姿が見えた。
 明滅する左側のターンランプ。
 えっ。
 まじ?
 その車は脱着場の手前の出入り口から中に入り、往生しているナオヤの車の脇を通り抜けるとその先で端に寄せて停車した。
「かみさまーっ」
 両手を額の前でこれでもかとばかりに組んでは叫び、ナオヤは淡いピンク色の車に向かって駆け寄って行く。


 キュルルルル。


 セルモーターの音がする。


 キュルルルルルルルル。


 はあはあと、駆けたことと興奮とで荒くなった呼吸を整え、異様に長いセルモーターの音を無意識的に聞き流しながらナオヤは運転席へと近づいて行く。
「あの」


 キュルルル。


 ショートヘアの女性はメーターに向けた視線を上げようとはせず、何度もキーを回してはエンジンをかけようとする。


 キュルルルルルルルルルルル。


「……?」
 うーん。
 この状況は一体。
 女性の右腕ががくっと落ち、頭がヘッドレストに投げ出される。
 ドアが開けられた。
 膝下まであるゆったりしたスカートがふわりとなびく。
 紺のデニムジャケットと対照的に心持ち上気した頬。
 年上なんだろうけれどそんなに上でもないんだろうなあ。
 などと思いながら見とれていたが、振り上げられた手が大胆に頭をかいたところではっと我に返る。
「ガソリン」
「え」
「終わっちゃったみたいで」
 困ったな。表情がそう言いたげに少し笑っている。
「ガス欠、っすか」
「はい」
 神様おれ何か悪いことしましたか。
「ああーっ」
「わ」
 大声でうつむき頭を抱えるナオヤに驚いた女性は「あの、大丈夫?」
「助かったと思ったのに……」
「え?」
「実は」


 ナオヤはここにいることの事情を彼女に話す。
「じゃあ」
 はー。溜め息をついて「どっちも動けないんですね」女性の表情も曇る。
「ケータイもつながらないし」
 西と思われる方角に目を向ける。「遠くないうちに夕暮れが来るし」
「うーん」女性は下り坂に目を向けている。
「歩いて助けを呼びに行く、とか」
「それ考えたんすよ」
 ナオヤも同じ方を見る。
「遠いからどうしようかなって迷っちゃって」
「距離はありますね」
「行っときゃ良かった……」
 後悔先に立たず。
 くそっ。
 別に急いでいるわけではない。ふらっと長旅に出たくなって、二日分くらいにはなるだろう着替えをバッグに積め、あとはケータイと財布だけを持ってきた。
 最悪でも大学の講義が始まる日までに帰れればいいわけだが、だからといってこんな山の中にずーっといても仕方がないしいい気分でもない。
 恨みを込めて愛車を睨む。
 そして彼女の車。
 何とかしてガソリンを移す方法は無いだろうかと考える。
「何か持ってません?」
「えっ」女性がくるっと振り向く。
 慌てたような表情に「あ、いや、灯油ポンプみたいなもの持ってたらガソリン移せるかなあとかなんか妙なこと思いついて」
「ああ」ふっと、力が抜けたような表情を見せたあと「バッグしか持ってきてないの、特に……」
「そうっすか」
 あれっ。
 何か今ぎゅっとくるものを感じたんだけどいやいや落ち着け俺。
 いくら年上のおねーさまと山中二人きりとはいっても。
 意識して見てしまうとけっこう可愛い顔立ちの人だよなあとか指輪してないなあとかそういえば声もちょっと声優さん系の声だなあなんて色々なことを考えてしまっていやお前いくらなんでも状況が。
 状況が、と互いの車を交互に見て、初めて気が付いた。
 同じ車だったんだ。
 ナオヤの車は前のオーナーが好きで付けたらしいエアロとか凝った電飾のオーディオなんかが付いている中古。少し傷の入った黒いボディもそれなりに気に入っている。
 対する彼女の車は普通のノーマル仕様で色もシルバーっぽいピンク。全然気付かなかったけどよく見ればどちらも同じ車だった。


 ということは。


「タイヤ」
「え」
「スペアタイヤ積んでます?」
「うん……あると思いますけど」
 自分でも表情が明るくなっているだろうことは想像がついた。



 快調、とはいかないけれども走っている。
 今はそれだけで大満足だった。
「いやほんとありがとうございますもーなんて言えばいいか」
「だから何もしてないじゃないですか」
 隣の席ではユリコさんが笑う。
「タイヤ出しただけだし」
「それが大助かりなんですって」
 数時間ぶりに路面を走っているというだけでも嬉しかった。
 あまり無理な走りはできない。なにしろ左側のタイヤがどちらもスペアタイヤになっている。ひょっとすると後ろだけスペアにして左右前輪は通常のタイヤ、というようにすればもうちょっと安定したのかもしれない。
 まあとにかく今は里に下りてユリコさんのガソリンをどうにかするのが先決だ。
「だけどいいんですか、本当に」
「何が?」
「タイヤお借りしちゃって」
「だって、二本買うっていったらけっこう高いよ?」


 ナオヤの車に二台分のスペアタイヤを装着し、互いに必要なものを仕入れて戻る。それがナオヤの思いついた最後の手段だった。
 スタンドかカーセンターに行けば、よくある規格のタイヤだから二本くらい手に入れることはできるだろうと思い、パンクした二本も後ろに積んでおき、ホイールはそのまま使おうと思っていたら。
「貸してあげるよ」とユリコさんが言ったのだった。


「うー、ありがとうございますほんともう」笑顔でどさくさまぎれに「好きになりそう」
「あはははは」
 ひー。目元をこすりながら「私のほうこそごめんなさいね、乗せてもらっちゃって」
「いいんですよおそんなこと」流されちゃった、ちぇ……ってこらこら。
「何を言うのかと思ったら、ここで待ってます、なんてできるわけないっしょ」
「よかったのに」
「だめだめだめ」
「もう」
 ちら、と横目で彼女を見た。
 一瞬の横顔に、胸がぎゅっと詰まるような感じがした。
 すごく沈んだ笑顔に見えたのは気のせいなのだろうか。
「ありがとうございます」と彼女が言った。
「なんだかヨソヨソしいなあ」
 今の感じが気になり、あえて明るく話しかける。
「せっかくタメ語になってきたと思ったのにー」
「もうっ」ぺし、と左の肩を叩かれる。
 今度は一瞬だけくるっと顔を向けてみた。
 しょうがないなあ、といったほんのり赤い笑顔。
 さっきの感じは気のせいだったか。
 可愛いよなあユリコさん。
 よく見ると少し丸っこい鼻先がまた可愛らしさを醸し出してはおるまいかこれは。
 視線に気付いた彼女は笑いながら再び左肩を小突き「前!」
「はいっ」
 どちらからともなく笑いが起きる。
 なんか、雰囲気良くね?
 妙にドキドキしてくる。
 これはまさか。
 まさかねえ。


「でも……ほんとにいいの?」
 ユリコが訊ねる。
「急いでない?」
「全然」
 ゆるゆると下る坂、後続車が見えたので路肩に寄り、左のターンランプを点滅させる。
「あと一週間くらいさまよってても大丈夫」
「うそ」
 パパッとクラクションを鳴らし、後続車が追い抜いて行く。ターンランプを消し、慎重に車線へ戻る。
「なんか大学の構内工事とかやってて遅いんですよ、今年度の開始」
「そうなんだ」
「ユリコさんは?」
「え?」
「どこ行く途中?」
 話の流れで訊いてみたはずが返ってこない返事に、あれ、と表情を確かめる。
 細い瞳と目が合って驚いて前を向き直った。
「……傷心旅行ってとこかな」
「えー」
 そうなんだ。
 ナオヤは心の中でうなづいた。そっか、それで時々沈んだような顔を見せるんだね、ユリコさん……。
「何が」と切り出したところでやめておけばよかったかと思ったが、そのまま「あったんですか?」
「うーん」
 少し鼻にかかった笑いのあと「訊かないで」
「はい」想像通りの返答に素直に応じる。
 そうか。
 辛いんだろうな。
 思い出したくないんだろうな。
 スタンドが見えてきた。



「ダメ?」
「悪いんだけどさあ」
 ガソリンスタンドのおじさんが申し訳無さそうに頭を下げる。
「ポリタンクにガソリン入れて売っちゃいけないのよ」
「そうなの?」
「法律」
「まじっすか」
 知らなかった。
 おばちゃんががたがたと後片付けを進めるスタンドに滑り込んだはいいものの、ポリタンクにガソリン入れて戻って給油、という素人考えに基づく計画はここで頓挫した。
「何かいい手無いかなあ」心底困り果てておじさんに聞いた。
「ガソリンは専用の缶があってな」
「うん」
「それ持ってれば入れてやれるんだわ」
「おじさんとこには無いの?」
「無い」
「えー」
「あっちの」さらに下った方面を指差して「街まで行けばホームセンターがあって、そこには売ってる」
「街」
 そういえばここに来る途中、交差点でなんとか市街って標識が出てたっけ。
「どのくらいかかるの?」
「だいたい二十分くらいだなあ」
「あー」ちら、と愛車を見る。
「もうちょっとかかるかも……」
「あっちまで行けばよ、一晩中やってるスタンドもあっから買って給油してもらってくりゃあ大丈夫だろ」
「そっか」
 仕方ない。


 本当に申し訳無さそうなおじさんに何度もお礼を言いながら車に戻る。
「ダメだって?」
「ポリタンクにガソリン入れるのは法律違反だって」
「そうなの?」
 やっぱ知らなかったっすよね。
「ガソリン専用のやつがあるから、それ買って入れてもらうしかないらしいです」
「そっか」
 動き出す。ぱんっ、とクラクションで礼を言うと、おじさんが深々と頭を下げていた。なんだか逆に悪いくらい。
「遅くなっちゃうね」
「……そうですね」
 もう五時半を回っていた。日が延びたとはいってもだいぶ薄暗くなってきている。
 油圧ジャッキであれば時間もかからなかったのだろうが、ラゲッジに積まれている応急用の簡易ジャッキ、しかも自分でタイヤを交換するのは初めて、決していい条件ではない中、二本も交換するのにだいぶ時間を消費してしまっていた。
「でもホームセンターって言ってたから八時くらいまではやってるんじゃないかな」
「だといいね」
「ええ」
 少し下ると市街地への交差点が見えてきた。
 右折レーンに入り、慎重に曲がっていく。
 すぐに工事中、ただし休工中の看板が見えた。アスファルトが剥がされて砂利がむき出しになった道路を進み、再びアスファルトが戻ってくる。
 跳ねた。
 がくがくと不気味な揺れがフェードイン。
「やばっ」
 慌ててハザードランプのスイッチを叩き、路肩に寄せる。
 飛び降りたナオヤはまず左後輪から確かめようとナットに触れた。
「緩い」舌打ちする。一個は手で簡単に回せるほど緩んでいた。
 締め付けが足りなかったのか、取り付けた時のタイヤの角度がまずかったのか。
「前は大丈夫みたい」ユリコも同じようにナットを確かめている。
「……怖いからもう一度締め直します、前も」
 エンジンを切り、バックハッチを開ける。
 ユリコの言葉に甘えてスペアを借ていくつもりでいたからパンクしたタイヤは積んでいなかった。ある意味それが幸いし、速やかにジャッキとレンチを取り出す。
 両脇を林にかこまれているうえに時間は六時前。
 薄暗い中、ジャッキを据えるポイントがよく見えない。
「うーん……ここかなあ」手を当ててみるがイマイチ。
「くぼみがあったはずなんだけど……」
「見える?」
「全然」ふぅ。
 膝をつきどうしたものかと困る。
「懐中電灯積んでおけばよかった」
「ちょっと待って」
 思い出したようにユリコが助手席のドアハンドルに手をかけ「開けるね」
「はい」
 上体を車内に入れ、何かガサゴソとまさぐった様子のあと取り出したものは。
「ケータイ?」
「ちょっと待ってね」
 えーとどうやったっけこれじゃなくてこれ、でもなくて、ああそうか。
「ここ長く押すんだ」えい。
 ぴか。
「うわ」眩しっ。
 撮影用の補助光がナオヤの顔を照らし出す。
「私が照らしてるから」
「へー」
 ポイントにジャッキを合わせる。
「そんな機能付いてるんすか」
「最近は付いてるの多いよ」
 しゃがむ体勢が少々キツいのか、よっ、と姿勢を調整しながら「これくらいしか手伝えないけど」
「何言ってんですか大助かりっすよ」
 ネジをまわし、ジャッキの頭をボディにかませる。
「ありがとございます」
「えへへ」
 そう、その笑顔。
 時折見せる笑顔がキュートで、その度に少しずつ心が惹き込まれていくのがわかる。
「笑うと」ハンドルをひっかけてぐるぐるジャッキアップさせながら「すっごい可愛いですよおっよいしょっ」
「……そう?」
「うん」
「ありがと……」小さい声でユリコがつぶやいた。
 予感がした。何か、楽しいことがやってきそうな予感。
 レンチを持ってタイヤの脇に動く。灯りも一緒に動いていく。
 二本の増締めでさらに三十分を費やすことになった。



「売り切れって」
 街中に入りホームセンターを探し、ようやく辿り着いたのが八時前。
 閉店直前だった。
「無いんすか、一個も」
「例の値下げで買いだめする人が多かったんだと思うんですよ」
 レジのお姉さんが呼んでくれた責任者らしいおじさんがこれまた申し訳無さそうに「一気に売れてしまいまして」
「そうですか……」
 ガソリン専用缶は売り切れていた。
「お急ぎですか?」
「実は」事情をなるべくかいつまんで話す。
「そうでしたか」それはまた。おじさんも考え込む。
「明日までお待ちいただけますか?」
「明日?」
「専用缶も入荷する予定になっておりますので、お客様のお名前で一つは確実にお取り置きさせていただきます」
「明日か」考える。
 もう八時になる。これ以降このあたりで開いている店といえば幹線沿いのガソリンスタンドくらいだろう。どこかにうまく専用缶があればいいだろうけれど、いつまでもスペアタイヤで動き回るのも辛いものがある。
 ここは一泊した方が無難かもしれないなあ。
「どうしましょう?」
「じゃあ、一個、お願いします」



「一泊?」
「ええ」
 車に戻り、ユリコに報告。
「一泊するの?」
 驚きと当惑が、笑顔を重ねられた上からでも感じ取れる。
「うーん」その場の勢いで決めてしまったものの。
 ちょっと後悔した。
「このまま動き回るのも不安だし、車から離れすぎちゃうのも良くないかなと思ったんで」
「で、一泊して買って給油?」
「はい」ごめんなさい。頭を下げる。
 沈黙。
「……しょうがないか」ユリコは車の外に目を向ける。
「無いんだもんね」
「考えてみたら」
 ナオヤはポケットから携帯電話を取り出し、電源を入れる。
 アンテナマークは三本。
「ロードサービス呼べばいいんですよね」
 苦笑した。
JAFとか、保険会社とか」
 脱着場は圏外だったが、街中であれば通じないはずがなかった。圏内になったところで救援を求めれば、ガス欠だろうがバッテリー上がりだろうがどうにでもなる話なのだ。
 簡単に解決できるだろうと思い込んでいたためか、そこに思い至らなかったのが悔やまれる。
 二人とも、今頃は家に帰れていたかもしれない。
「……いいよ」
「え」
 ナオヤの顔をユリコが見つめる。
 笑顔だった。
 笑顔だったが、寂しさを感じさせた。
「ナオヤくん、帰って」
「え?」
「私、どこかで一泊して、ガソリンもらって車に戻るから」
「……でも」
「ありがとね」
 うつむき、ユリコは「ほんとにありがとう」


 動揺を感じた。


 誰でもない、寂しいのはナオヤ自身だった。
 とても可愛い笑顔を見せるこの女性を、好きになりはじめていることに気が付いた。
 別れの時が来たことを実感することで、そのことに気が付いていた。
 はっきりと、寂しい。
 寂しいが、たまたま出会った二人とも、この状況を望んで迎えたわけでもなく、彼女にしてみれば見ず知らずの男の車に乗り、おそらくは土地勘も無い場所で二人きり夜を迎えようとしているのだ。
 そりゃあ、不安だろうなあ。


「いいんですよ」


 状況を、受け入れなければ。


「俺の方こそ……ありがとうございます」
 キーをひねった。エンジンが快調に始動する。
「途中にビジネスホテルがありましたよね」
 言いたくない。そんなことは言いたくない。
 自ら別れへの道筋を示したくない。
 こくり。ユリコはうなづいた。
「そこで、いいですか?」
 こくり。またも、無言で。


 じっとりと湿った手でハンドルを握る。
 葛藤があった。
 迷惑になりたくないという思いと、助けになりたいという気持ち。
 彼女の醸し出す雰囲気故なのか、一目惚れに近いこの感情からなのか、助けたいという強い衝動に突き動かされてきた。
 最初は自分が助けてほしかったのに、彼女が車から折り、ガス欠で立ち往生したと知ると、気持ちは逆転していた。
 俺はこのひとの力になりたいんだ。助けになりたいんだ。
 できることは何でもしてあげたいんだ。
 無言で走る道すがら、自分の気持ちがはっきりと形になっていく。



 よく見かける系列のビジネスホテルだった。
 慎重に駐車場に入る。今の車の状況で無理をしたくないということもあったし、わずかでも時を遅らせたいという思いからでもあった。
 もっとも前者については効果的でも、後者についてはさして役には立たなかった。
 空いているスペースに車を停め、エンジンを、切る。
 訪れる静寂。時折バイパスを駆ける車の音が遠く潮騒のようにも聞こえる。
 感傷的だからだろうなあ。のんきにそう思った。
「ありがとう」
 ゆっくりと、ユリコはシートベルトを外す。
「ナオヤくん、ありがとう」
 ノブに手をかけ、ユリコはナオヤを見る。
 どうしてそんなに寂しそうなの?
 なんで、そんなに無理して笑顔を作ろうとするの?
 俺のせい?
 全部、俺が自分の感情に動かされてやった、ただのおせっかいだったの?
 それとも何か理由があるの?
 だったら教えてよ。


 やっぱり、このままはいやだ。


「何か」
 彼女がノブを引き、ドアが開いた瞬間。
 言葉が口を突いていた。
「できること、ないですか?」
 ドアの方を向いたまま、ユリコの動きが止まる。
「俺、どうせ暇だし、一緒に泊まりますよ」ああいやなんかニュアンスが「別に何がどうとかじゃなくて、タクシーとか使うと高いだろうし、歩くって距離でもないだろうし、せっかく俺の車は動けるんだし」
 無意識にベルトを外し、彼女に体を向ける。
「このまま俺だけ帰るのってなんか嫌です」
 ユリコは、動かない。
 ドアが開いたことで灯った室内灯が、彼女の姿をシルエットのように窓へと映し出している。
「今日のこと、おせっかいだったなら謝ります。でも」
 自分でも驚くほどに言葉が止まらない。
「なんでかわからないけど俺ユリコさんのこと助けたい」
 ぴく。ドアがかすかに揺れた。
「力になりたい」
 彼女の頭越しに自分の顔も映り込んでいることに気が付いた。
 真剣な顔してるなあ。頭の中ののんびりした部分がそんな感想をもらす。
「俺だけラッキーって顔して帰るのはやだ」
 半分告白に近いな。また別の冷静な部分がそう言っていた。
 心臓がばくばくと高鳴る。


 すすり泣きが聞こえ、彼女の頭が垂れる。


「ユリコさん?」
 なんで泣いてるの?
 俺があまりに勢いづいたから?
 どうして。


「優しいね」
 泣きながら、彼女は言った。
「優しいね、ナオヤくん」
「いや……そんな」
「どうして?」
 肩が震えだした。
 しゃくり上げるような泣き方になっていく。
「私なんか放っといていいのに」
「え」
 傷心旅行。そんな単語が浮かんでくる。
「そんな」
 何でそんなことを言うの?
「そんなこと言わないで」
 何時間か前に見た笑顔が思い出され、また見えなくなる。
「放っとくなんて、そんなこと」
 できないですよ。
 そう続けようとした言葉は、彼女の叫び声に打ち消された。



「私なんかどうなったっていいのよっ」



 ばっ、とドアが開け放たれ、ユリコは飛び出す。



【明日につづく】