四月の馬鹿(後)

【昨日のつづき】


「バカ」
 廊下に引っ張りだされた直後、ミサキは短く鋭くそう言った。
「ほんっと……バカ」
 何も言い返せなかった。
「あんた自分で何やったかわかってんの?」
 畳み掛けるようなミサキの口調。「いきなり好きなんて言って、嘘とか言って、どれだけ傷つくかわかってんの?」
 わかっていなかった。そう言い返すことはできなかった。ミサキにはそんなこと百も承知だろう、ただひたすら、うつむいて叱責の言葉を浴び続ける。
 女子は強い。だが、とても脆くもある。まさに今そのことを思い知っている。
 熱くなる目頭はもう止まらなかった。じわじわとまぶたが濡れていく。
「カナがどんな気持ちでいたと思う?」
 心臓のあたりを見えない刃物で抉られたような感覚。
「カナはねえ」
 カナ。
 その名前を聞くたびにこみ上げてくるものを押さえることができない。
 ミサキが「あんたのこと」と言うのと同じタイミング。
 ケンジは「あやまりたい」と叫んでいた。
 顔を上げる。涙がぼろぼろと頬をつたい落ちるのがわかる。
「あやまりたい」
 今度は涙声だった。
 承服しかねる。ミサキの表情はそう言っていたが、ダメという言葉は出てこなかった。
 何かをこらえるような目付きで、今度はミサキが顔をうつむける。
 洟をすする音が何回か廊下に響く。
「カナちゃん帰った?」
 やっとその言葉を絞り出す。
 ミサキは小刻みに首を振った。
 もう三回、ケンジは洟をすすって「どこ?」
 小さく深呼吸をするミサキ。迷うように、聞こえなかったらそれでもいいような小さい声で言った。
「理科棟の裏」
 その言葉は、ケンジの耳に届いていた。
「ありがとう」
 ひときわ大きく洟をすすり上げると、ケンジは駆け出す。
 階段を駆け下りる音。ミサキは顔を上げ、廊下の端に目をやる。
 これでいいのかなあ。
 あんなデリカシーの無さそうな奴。
 でも泣いてたね、あいつ。
「はぁ……」溜め息が出た。
 なるようになれ、か。
 頑張れ、二人とも。
 は。
 教室の中から勇大と慎太郎の頭がにょきにょきと生えている。
「何よ」
「あはは」
「あはは?」勇大の愛想笑いに段々苛立ってきて「だいたいあんたが大声で呼んだりしなけりゃあっ」
「うわやめろってミサキぃでででででで」



 カナちゃんは、本当にそこにいた。
 八部咲きの桜の横を抜け、鉱石のある角を曲がる。
 校舎の長手方向に半分ほどのところで、座り込んでいた。
 じゃりじゃりと小石を踏む足音に顔を上げたカナちゃんは、ぽかんとした表情を見せたあと、また膝の間に頭をうずめてしまう。
 すぐそばまで来てしまった。
 謝らなきゃ。その一心でここまで来たけれど、ふと、自分は未だカナちゃんのことが好きであり、過程がどうあれ今こうして二人きりでいるという事実に心拍数がばくんと急上昇する。
 声が出ない。
 ぐじ。
 無意識に鼻を鳴らしたのかと思ったけれど、それはカナちゃんのほうだった。
 泣かせたんだ。
 俺が泣かせたんだ。


「ごめん」


 一言、やっと言葉が。
「嘘言って……ごめん」
 カナちゃんは、少しだけ顔を上げた。
 目が見える。少し下向きで、真っすぐ前を向いて。
 怖くはなかった。どうせもう、嫌われているだろうから。
「……嘘が、嘘なんだ」
 本心を明かしたところで失うものなんか、ない。
「好きなのは、嘘じゃない」
 怖くはなかったが、カナちゃんを見続けてはいられなかった。


 真下の玉砂利に視線が動く。


「カナちゃんのこと、好きなんだ」


 だから、カナちゃんが顔を上げ、自分を見ていることにケンジは気付かない。


「怖かった。気持ちを伝えて、嫌われるのが怖かった。ずっと友達のままでも良かった。仲良く遊べるんだったら、それで良かった」
 押さえていたものが一気にあふれ出てくる。
「入学した時から、ずっと気になってた。背を伸ばしたいって言ってたけど、俺は小柄なカナちゃんが可愛くて好きだった。笑ってて目が合うとすっごくドキドキする。女子と話するのって苦手だったけど、カナちゃんとは話ができるだけでも嬉しかった。俺、女の子のことこんなに好きになったこと今まで無くって、もっと近くにいたくて、カナちゃんといっぱいいろんなこと話したくて」
 顔を上げた。
 目を潤ませ、唇を噛んでいるカナちゃんと、目が合った。
 言葉が出なくなる。呼吸が荒くなっている。
 そんな目で見ないで。
 そんな目にさせたのは、俺だ。
 再び、目を落とす。


「びっくりした」
 かすれた声でカナちゃんが言った。
「あたし……辛かったよ」
 泣き出しそうな声が、一つ一つ、着実に胸を抉っていく。
 吹き出そうになった嗚咽を必死に押さえ込む。
「嘘なんて言われて」
 体中の筋肉が全力で泣こうとしている。
 倒れるかもしれない。頭のどこかが冷静にそう言っている。
「嬉しかったのに」
 消え入りたかった。自分の小ささに、感覚が伝えてくる世界がぐんぐん大きく感じられてくる。このまま小さく小さくなってアリにでも食べられてしまえばいいのかもしれない。
 こんなにカナちゃんを嬉しい気持ちにさせるなんて。
 嬉しい気持ちに。
 嬉しい。


 嬉しい?


「……え?」
 思わずカナちゃんを見る。
 潤んだ目。ずっと目を離さず見つめている。
 涙でぐしゃぐしゃになりかけたケンジの顔を。
 その日に提出するはずの宿題のプリントが、朝、教室の机の中から出てきた時の焦った感じのような、熱くなった血液が心臓から指の先までぼわっと広がるような感覚があふれて。



「あたしも好き」



 足の力が抜けた。
 顔を伏しそうになって手を突く。陽の光にあたためられた石がほんのり暖かい。
 玉砂利で良かったと良くわからない感想を抱きながら手のひらで握りしめる。
「ケンジくん」
「大丈夫」
 駆け寄ったカナちゃんの差し出した手を握り、立ち上がる。
「あ」
 手を握ってる。
 そういえば今まで手を握ったことってあったっけ?
 ないな。
 握ってしまった。
「あ、あ」慌てる。手を離すと、ひんやりと感じる春の空気がすうっと手のひらを抜ける。
 この現状にまだ慣れることができない。
 立ち上がると、カナちゃんの頭のてっぺんはケンジの鼻の先くらいになる。
 見上げるカナちゃんと見つめあう。
 今なんて言われた?
 あたしも好き。
「あたし(本当は)モスキ(ートの娘なの)」と言おうとしたようなことがなければおそらくは好きだと告白されたということなのだろうが他の可能性は無いか。
 勝手に思い込んでいるわけではないのか大丈夫なのか本当にそうなのか。
 呆然と思考を巡らせているその間にじわじわとカナちゃんの顔が笑いはじめてついに「ぷ」
 笑い声が。
「あはははは」
「え」なんだなんだ。
「はな」
「なに」
「はなだってば」
 泣きはらした笑顔も可愛い。
 そう思いながら右手を自分の鼻に持っていくと粘っこい湿った濡れた感じがしたので前に伸ばしてみるとものすごい勢いで鼻水が伸びた。
「うわ」ハンカチハンカチ。
「あははは」
 笑われながらハンカチで鼻をかむ。
 ただならぬ量の洟が出たが仕方なくハンカチを畳んでポケットに。
 呼吸を整えるカナちゃんと再び見つめ合う。
 晴れ晴れする。昂っているようで、清々しい、何と表現すればいいのだろうこの気持ちは。
 もっと早くこうしていれば良かったように思う。
「俺」
 少し心配になって訊く。
「好き、って言ったよね」
「うん」
 ウサギのような目でカナちゃんがうなづいた。
「あたしも言ったよね」
「うん」
 そうか。いいんだ。
「言ったよね」カナちゃんが繰り返す。
「言った」うなづき返す。
 下を向きながらカナちゃんが言う。
「ケンジくん、優しいし、カッコいいし……あたしはそう思うんだよ、それに」
 嬉しそうに顔を上げる。「何でかわからないけど話とかしてるだけでめちゃめちゃ楽しくなる」
「それ俺も」
「んふ」
 照れた笑顔。
 その笑顔が一番好き。
「ごめんね」
「うん……うん、いいんだよ。もう」
 ふるふると首を振るカナちゃん。シャンプーなのかリンスなのかまさか香水ということはないんだろうけれど、女の子の匂いがふわっと広がってまたドキドキする。
「……一緒に帰ろ」
「うん」
「あ、待ってカバン」カナちゃんはばっと振り向いてじゃかじゃか駆けて「カバーン」
 さっき座り込んでいたあたりにカバンが見えた。
「俺まだ教室だ」
「取りに行こ」
「……一緒でいいの?」
「え?」
「恥ずかしく、ない?」
 にへ、と笑ったカナちゃんは「いいの」
 ならいいんですもう全然気にしません俺も。
「行こう」
「うん」


 角を曲がると桜が見えてきた。
 この季節が、今まで以上にもっともっと好きになりそうだ。



【つづく。かもしれない】

おまけ

「ね、ケンジくんケータイ持ってる?」
「持ってるよ」
「アドレスとか……教えてよっ」
「えーとね」
「あ、ちょっとまって、あたしの出すから……えーと……はいっ」
「……それなに?」
「え?」
「なんてケータイ?」
アドエス
「……アドエス?」


「んへへ」


「はは」
「メルアドは?」
 あー、まだ深く触れてはいけないんだね。