今朝辛坊治郎が

ズームインで辛坊さんがしょうがない発言について取り上げてました。
肯定的な部分としては「原爆投下によってソ連の本土侵攻を食い止めたというレトリックはすでに一般的になっていた」という部分。
否定的な部分としては「過去の原爆投下を肯定するような発言をすることで、将来の核兵器使用を肯定するような風潮を招きかねない」といった趣旨の部分。
まったくもって尤もだと思います。
しかしながら、過去の歴史について当時の選択肢としての妥当性を述べることと、今現在あるいは後の時勢において同様の選択肢を是とするっていうのは別問題だと思います。
その発言を利用する方が圧倒的に間違っているはずですから。
さもなければ過去の歴史を検証することすら憚られる空気を醸成しかねない。
極端な例だってことは承知で書きますが、過去の農村においては間引きもしょうがない現実であったと述べることと、今後貧困にあえぐことがあれば間引きはしてもいいっていうことはイコールではないでしょう?
まあもっとも避妊や堕胎が存在する現代においてはある意味間引きは行われているとも言えますが、すでに産まれてきた命を絶つことは認められるものでしょうか?
繰り返し言いますがこれは極端な例えですけどね。
「しょうがない」と「許せる」「認められる」はイコールでしょうか?
世界唯一の被爆国であることを政争に使うことこそ「しょうがない」では済まされない問題だと思いますよ、私は。
それも足の引っ張り合いをするためだけにしか使わない。
前後の文脈、意味するところを無視してひたすら「核使用=しょうがない」という内容の発言だと押し付ける。
どうしようもない国だとつくづく再認識。