咳で眠れぬ夜が明けて

そろそろ背中が痛くなってまいりました。咳のせいですはい。
親父様がトイレのファンを交換してくれた(大感謝T_T)おかげで快適な夜…になるはずなんですが、どうも咳が出て出てしんどいのなんの。ぼけっとしているのも癪なのでTH55で本でも読んだりして。

墜落の夏―日航123便事故全記録 (新潮文庫)

墜落の夏―日航123便事故全記録 (新潮文庫)

はまぞう便利〜。以前この「墜落の夏」を読んだ時に書いてあったと思ったんですが、日本人の遺体というものに対する執着心というのは他の民族と比べても相当強いものがあるようです。欧米人であれば、どう考えても助からないような飛行機事故でどうしても親族の遺体が見つからない(特定されない)家族が現場に赴いた際、日本人の法医学者(検死官だっけ?すんませんうろ覚えです)が遺体は探さないのかと訊ねたら「これでは助かっていないでしょう」と、家族の死を受け容れた言葉が返ってきたそうです。
WTC跡地での遺体捜索の様子などを見ていると、そんなに極端な違いは無いのではないかなあとも思うのですが、人里離れた野山に墜落した日航機の場合と、人口過密のオフィス街で崩壊した高層ビルとを比べた場合、後者の場合はある程度行方を特定しておかないと、実は生きていたというような事態が発生する確率ははるかに高まるのではないんじゃないかと。実際テロに巻き込まれて亡くなったと思われていた人が実は生きていたことが判明して、死者数が後から減ったことがあったようにも思いますし。一方で日航機の場合は、それこそ遺体の細片までかき集めての身元の確認がその年の十二月まで続けられ、最終的に二名を除いた残りの身元は判明したそうです。その二名にしても、たしかに乗り込んでいたとするならば残念ながら生存している確率はほとんど無い(細片すらもわからないわけですから)でしょうし、そこに至らずまでも師走まで調べなくとも生存の可否についてはわかっているはずです。いや、愛する家族の亡骸を求める気持ちは私にもきっと生じるでしょうしそれを否定したり茶化すつもりも死者への冒涜をするつもりも毛頭無いんですが、日本人はとにかく「亡骸(遺体)」に対する拘りが強いんじゃないかなと。鑑定技術が発達するのもわかるような気がします。そのあたりも、井沢氏の「逆説の日本史」で再三述べられている怨霊信仰で説明すればけっこう素直に納得できるのかなあと思う朝方でありました。
逆説の日本史1 古代黎明編(小学館文庫): 封印された[倭]の謎

逆説の日本史1 古代黎明編(小学館文庫): 封印された[倭]の謎